むかしの日本の星空 東洋の天文学と星座

2022/06/10

宇宙 星座

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むかしの日本の天文学・星座

昔の日本では中国由来の天文学を取り入れていた為、現代の西洋天文学のような星座などの表現はなかった。しかし、中国にも星に名前を付けて分類したものは存在していた。中国の星座は、今から2,500年位くらい前に成立した星座体系で、 西洋などの影響を全く受けずに独自に発達したといわれている。

中国の星座

星座は大きく分けて2つのグループがあり、一つ目のグループは 「二十八宿」と呼ばれる天の赤道に沿って作られた28の星座で、 天文学や星占いに重要な役割をもっているため歴史も古く、 紀元前8~6世紀頃には原型が成立していた。

二つ目のグループは、古代中国の社会身分制度がそのまま反映された250 あまりの星座たちで、北極星(当時はこぐま座のβ星)を天の皇帝とし、 そこから皇族、官僚、軍隊、庶民…といった星座が配列され、 天の北極から遠ざかるほど庶民的な星座になる。 唐の司馬貞は「星座に尊卑あり。人の官曹列位のごとし」と明快に説明している。 こちらのグループは紀元前5~4世紀頃に原形が成立したとされている。

3世紀になり、三国・呉から晋の時代に太史令をつとめた陳卓(ちんたく)は、それまで知られていた 巫咸(ふかん)・甘徳(かんとく)・石申(せきしん)の3人が作った星座を整理し、 283星座、1464星の星図を作り、中国星座の体系は完成し、それ以降は若干の前後はあるものの、 基本的に最後までこのスタイルが守られた。
そして明末頃になると、西洋からの宣教師たちの手により、 中国からは見えない南天の星座が追加されました。 18世紀中ごろに編纂された星表『欽定儀象考成』には、 南天の星座が23記載されており、 中にはバイエルの星座を直訳したものも含まれている。

日本の中世から近世の天文学

暦は9世紀半ばまで、その時々の中国の暦を採用していたが、遣唐使の廃止などによって中国との往来が途絶えると、862年の宣明暦の採用を最後に改暦は長く行われなくなった。これによって暦の誤差はその後800年にわたって累積することとなったが、江戸時代の天文学者渋川春海が中国の元の暦をもとにして貞享暦を作り、改暦を行った。この功績によって春海は江戸幕府に新設された天文方の職に就いた。これ以後、朝廷の陰陽寮が行ってきた暦の編纂は幕府主導で行われるようになった。また、この頃に井口常範の『天文図解』西川如見の『天文義論』などの天文についての書籍が刊行されるようになり、人々に天文学に関する知識を広めるきっかけとなった。江戸中期には将軍 徳川吉宗によって本格的な西洋天文学の導入が図られ、在野の天文学者でありながら独自の計算で日食を正しく予報したりケプラーの法則を独立発見した麻田剛立や、剛立の弟子で後に幕府天文方となった高橋至時などが現れた。至時は間重富とともにケプラーの楕円軌道理論を取り入れた寛政暦を編纂し、また伊能忠敬の師として彼の日本地図作成を助けた。また、コペルニクスの地動説は本木良永・司馬江漢らによって、ニュートンの万有引力の法則は志筑忠雄によって日本に紹介されている。なお、密教由来の宿曜道の系統をひく須弥山説を支持する仏教僧は長年にわたって陰陽道の暦学を批判し続けてきたが、ここにきて西洋天文学の流入に危機感を抱いて梵暦運動を起こした。『仏国暦象編』を著した円通は、伊能忠敬や武田真元らと激しく対立したことで知られ、円通の流れは幕末の佐田介石へと継承されることとなる。

デジタルアーカイブで天文についての書籍を見ることができる。

井口常範の『天文図解』天文図解 - ジャパンサーチ
西川如見の『天文義論』天文義論 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

江戸時代、日本独自の星座

日本では、基本的には中国の「二十八宿」などの星座に、追加する形で、名付けられてない星に名付けられた。江戸時代の天文学者・渋川春海(しぶかわはるみ:1639~1715)、 渋川昔尹(しぶかわひさただ:1683~1715)の親子が選定した61星座308星のリスト
渋川春海著『天文瓊統』巻13にある 「元禄中所名星座」
『天文瓊統』巻13の記述によると、61星座のうち50星座は春海が命名し、 東宮傅、御息所、天帆、天蚕、天俵、松竹、鴻雁、萩薄、曾孫、玄孫、箙の 11星座は昔尹の命名によるものとされている。古代中国の社会身分制度が反映された中国の「二十八宿」に倣い、日本の当時のものに置き換えて名付けられている。

天文分野之圖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
天文分野の図 - 国立国会図書館デジタルコレクション


日本の近代の天文学

明治維新以降になると西洋天文学が本格的に日本にもたらされた。だが、工業化とは直接的には無縁であった天文学は他の科学に比べて新政府の関心は低く、明治当初には却って危機的状況に置かれていた。江戸幕府の天文方が廃止されて、陰陽寮が日本の天文暦法の一切を統括することが決められたからである。土御門晴雄(陰陽頭)や佐田介石(仏教思想家)らが、聖人の教えに反するとして西洋天文学を禁止するように強く働きかけたが、太陽暦の導入や新設の海軍省から航海上の安全確保の観点から西洋天文学導入の必要性を訴える意見が出たことによって、政府も天文学研究に本腰を入れるようになった。
佐田介石考案の『視実等象儀』
視実等象儀記 : 一名・天地共和儀記. 初篇 - 国立国会図書館デジタルコレクション 

江戸幕府の洋学所をルーツとする東京開成学校が東京医学校と合併して1877年に東京大学が設立されると、理学部星学科が設置され、翌年には天文台として星学科観象台が作られた。観象台は1888年に東京天文台となる。この東大理学部星学科出身の代表的な天文学者として、緯度変化のZ項を発見する等大きな業績を上げた木村栄や初代東京天文台長の寺尾寿などがいる。ちなみに「星学」とは旧来の「天文学」と言う単語があまりにも古風で近代的な学問の名として相応しくないと言う考えから生まれた呼び方であったがあまり定着はしなかった。

1887年には、荒井郁之助(戊辰戦争で幕府方の将として活躍したことで著名)のグループが新潟県三条の永明寺山で皆既日食観測を行い、8月19日に杉山正治が日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させるなど、日本の天文学も徐々にではあるが次第に国際的な水準に追いつくようになっていった。

出典:天文学史 - Wikipedia

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